大阪市の下水道 :

下水道のあゆみ







大阪の地勢とその特色

 大阪の地勢は、南から北にのびる上町台地と、その周囲をめぐる低地から成り立っています。
何千年の昔、この上町台地は深い原始林におおわれ、低地は波が打ち寄せる入江でした。
長い年月のなかで、入江は潟となり、湖となり、湿地となり、そのうえに町づくりが行われ、現在は市街地へと移り変わりましたが、上町台地とその周囲にひろがる低地という地勢は昔も今も変わっていません。

太閤(背割)下水

 豊臣秀吉の大阪城築城に伴う町づくりの際には、堀川と呼ばれる人工の運河を開削し、その土砂で土地のかさ上げを行い、町づくりをしました。
道路は、大阪城に向かう、東西路を軸にして、碁盤の目状に整理され、その道路に面した建物の裏口が、背中合わせになっているところへ下水溝が掘られました。
この下水溝にはさまれたほぼ42間四方の区画が町割りの基本となっていました。この下水溝は背割下水あるいは、太閤秀吉にちなんで「太閤下水」とも呼ばれています。
平成17年12月に、大阪市の指定文化財に指定され、平成18年度には見学施設のリニューアル工事を行いました。



明治の下水道

 明治に入って、コレラの流行などを契機に、明治27年(1894年)に、近代的下水道事業がはじめられました(中央部下水道改良事業)。
この事業では、総事業費104万円(当時の単年度決算額の約6倍)を使いそれまで開渠であった背割下水の溝床にコンクリートを打って、流れをよくするとともに、 板石で蓋をして暗渠化する工事を行いました。同時に、トンネル工法によってレンガ積みの下水道の築造も行いました。
市中心部の下水道は、明治34年(1901年)に一応の整備をみました。















 その後も市域の拡張等に伴い、周辺部の下水道改良事業が明治44年(1911年)から継続して行われ、大正11年(1922年)からは、都市計画事業としての下水道改良が 行われました。
急激な市勢の発展と、人口集中、工業の発達等に伴って、下水量も増加し河川等の水質汚濁をまねいたため、下水を処理・浄化する必要が生じました。

 このため、大阪市では、大正12年(1923年)に「大阪市下水処理計画」をまとめ、同14年(1925年)には、市岡抽水所内に下水実験処理施設を建設、「促進汚泥法」 (活性汚泥法)による下水の処理・浄化の実験(処理水量4,804㎥/日)を行いました。
そして、この調査、研究及び実験データを基礎にして下水処理計画を策定、昭和15年(1940年)4月には、津守、海老江の両下水処理場が通水しました。

 また、下水道事業の財政についても事業経営の基本とも言うべき下水道使用料金制度を昭和13年(1938年)に創設するなど、わが国の下水道事業の健全な運営に寄与しました。

 戦後は、昭和30年代から整備が進められ、数次にわたる下水道整備計画によって、中浜下水処理場をはじめ、10ヶ所の下水処理場が通水し、 昭和57年(1982年)には、全下水処理場の高級化が達成されるとともに、天王寺〜弁天下水道幹線の主要部が竣工するなど事業の進捗をみています。
水洗普及についても、昭和52年(1977年)に南区(当時)が全国の市町村・行政区で初めて水洗化100%を達成し、現在では、13行政区が水洗化100%となっています。

 また、平成6年度には事業着手100周年を迎え、さまざまな記念事業を実施しました。
記念事業の一つとして平成7年4月にオープンした下水道科学館は、多数の見学者を受け入れており、平成17年3月には、展示施設のリニューアルを行いました。


 また、平成19年3月に、汚泥の集中処理場である舞洲スラッジセンター第2期事業が完成しました。
今後も、浸水対策として、淀の大放水路などの雨水排水施設を甦らせるための水質保全対策や下水道資源を豊かな都市空間の創出のために有効利用するアメニティ対策などを進め、同時にこれらの施策の中で、老朽施設のリフレッシュ、地震に強い下水道づくりを進めます。



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